​2022年8月のメッセージ

2022.8.7「目を覚している僕は幸いだ」ルカ12章35~48節

 イエスさまの結びの言葉には、「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」とあります。主は全ての人に同じ要求をする訳ではありません。確かに神さまの為に特別な召しを受けている人があります。けれどどうでしょうか。私たちはとかく楽な方に自分を置きたがる傾向にあります。つまり自分は少なく与えられている者だから、少なく求められる方だと思っていると言うことです。しかし本当にそうでしょうか。私たちは反対に多く与えられている者だと言うことを忘れていないでしょうか。というのは、今、福音を聞いていること自体、特権であると言うことです。この世にあって、福音の「ふ」の字さえ知らない人が大勢いるのです。私たちはその中で、日々神の恵みのみ言葉に豊かにあずかっている者だと言うことです。この時代、神のみ言葉は、力なく有効ではないかに映ります。しかし、思慮深さとは、先を見る目を持つことに他なりません。反対は「愚かさ」です。先週の愚かな金持ちのように、ただ、飲み、食い、騒いでいるだけの人生です。それで良いのでしょうか。管理人は、その主人によって、立てられた僕に過ぎません。しかし、あなたは、私たちは、この主人である神さまから多くのものを託され、任されているのです。であれば、真にこの主人為に、神さまの為に使わなくてはなりません。もし今、あなたが多く求められているのであれば、あなたが多く与えられていることを意味するのです。あなたは、否、私たちは豊かに与えられています。素晴らしいキリストの福音を与えられているのです。

 今の時代は本当に先の読めない時代だからこそ、聖書にキリストに聴いていくのです。従って行くのです。     牧師 三ヶ嶋 徹

2022.8.14「火を投じる方」ルカ12章49~53節

 7月30日に、2つの平和を体験しました。その日の夜、牧師館の一番奥の部屋の窓から、津の花火大会の花火が綺麗に見えたのです。私は、花火を見て平和を感じました。そして、同じ窓から、もう一つの平和も見えていることに気づきました。それは終わらない平和です。人の世がどうなってしまっても変わることのない平和です。窓から、教会の屋根の上の十字架が見えていたのです。一つの窓から、花火と十字架、2つの平和が見えたのです。十字架を見た時に、私はなんだかとてもうれしくなりました。主が見守ってくださっているように感じられ、とても安心できたのです。  イエス様が「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。」と否定された平和は、いわば戦争によって消えてしまう平和です。イエス様が地上にもたらしてくださる平和は「シャローム」なのです。神との平和です。平和を、武力・戦争がない状態として、イエス様の「地上に火を投じる」という言葉を受け取ると、イエス様が私たちを攻撃するように感じるかもしれません。しかし、そうではありません。イエス様が投じる火は、神の国が到来するための火です。その火が広がることをイエス様は「どんなに願っていることか」と言われました。  

 しかし、その火が広がるためには、避けられない出来事を迎えなければなりませんでした。「わたしには受けなければならないバプテスマがある(50節)」といわれていることです。ここで、イエス様が言われている洗礼は、十字架の上で血を流す「血の洗礼」のことです。 イエス様は、水の洗礼を受けて、罪人の一人となって下さり、神様の御心を歩み通してくださいました。そして、神様の究極の御心である十字架と言う「血の洗礼」を受けてくださったことで、「救い」という火種がこの世にともりました。その火は、使徒たちの活動によって世界に広がっていきました。神様の時の中で、1517年マルチン・ルターによって宗教改革が起こりました。その結果、ヨーロッパ中にプロテスタントが広がったので、カトリックは新しい宣教地を求めて海外宣教に乗り出すことになりました。それで、1549年フランシスコ・ザビエルによって、イエス様の火が、この日本まで届いたのでした。 平和を考えるこの時期に、世界から戦争の火が消えることを、そして逆に、イエス様の投じてくださった火が広がることを祈り求めたいと思います。            補教師 瀬戸幸治

2022.8.21「安息日を喜びの日と呼ぶ」ルカ13章10~17節

 さて、今日のみ言葉は、18年もの間病の霊に憑かれ、腰が曲がって全然伸ばすことの出来ない女性が癒された話です。それはある安息日に会堂で起こった出来事でした。一瞬にして病が治った女性は喜びに満たされて神を賛美したのです。ところがその場に居合わせた会堂長(会堂管理者)は、それが安息日に起こったことだったので、腹を立てて憤った訳です。彼にとっては一人の病人が長い間の苦しみから解放されることより、安息日の言わば「しきたり」を犯さないことの方が大切なことだったのです。14節の「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」この言葉には、その優先順位がはっきりと表れています。

 確かに、申命記5章14節の十戒には「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。」とあります。確かに法的には、治癒行為は仕事であって、安息日の律法を破ったことになります。また、イザヤ書58章においても「悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。」と語られています。つまり十戒は単なる禁止律法ではなくて、もっと積極的に神を愛し、隣人を具体的に愛していくものなのです。ところが会堂長は憤ったのですが、本末転倒と言えるでしょう。その上自分を正当化し、イエスさまとその女性を非難したのです。「あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」と叫ばれました。ここにイエス・キリストの愛があります。        牧師  三ヶ嶋 徹

2022.8.28「へりくだる者は高められる」ルカ14章1、7~14節

  イエス様は、婚宴に招待されたら、上席につかないように言われました。そして、食事の席を催す時は、お返しをするかも知れない人を呼んではならないと言われました。どういうことでしょうか。  キリストは、この世の事から霊的な事へと導かれます。ですから、キリストはテーブルマナーを言われたのではありません。話の中心は11節「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」にあります。    キリストは、婚宴、すなわち神の国に招待される人がどのような人で、神がどのような視点で招待した者を見ておられるのかを言われたのです。つまり、神は、「自分は上席に案内されてしかるべき存在である」と思っている人。また、「神様から招かれたらお返ししなければ」と自分の内には神様にお返しできる善いものを持っていると考えている人。そのような傲慢な人(高ぶる人)は、ご自分の国に招かれない、ということなのです。   

 では、神様はだれを招かれるのでしょうか。それは「へりくだる者」です。「自分は神から恵みを受けるだけで、何もお返しする者を持っていない」と認識している者なのです。 14章の最初には、水腫を患う男性が、キリストに癒されたことが記されています。 この男性は自分では病を癒せなかったのです。まるで、井戸に落ちた者のように、そこから自分の力では抜け出せなかったのです。 しかし、キリストは、そのような者にこそ、手を取り、病気をいやして解放されるのです。  復活のキリストは、 今、「へりくだる者」一人一人の為に、神の国の場所、祝宴の席を準備されています。時が来れば、キリストは再び来られます。そして、神を畏れ、愛し、信頼する、そのような忠実な一人一人に「友よ」と呼びかけ、「さあ、もっと上席に進んでください」と言ってくださるのです。  補教師 瀬戸幸治