​2022年6月のメッセージ

2022.6.5「聖霊がくだる」使徒言行録1章8節

 コロナ禍が続いています。コロナウイルスを意識することで、以前と今とでは、自分の考え方や、生活スタイルが変わったなと思うことがあるのではないでしょうか。ウイルスは見えないけれど確実に存在しています。そして私たちは、コロナウイルスを意識することで、影響を受けているのです。このことは、洗礼を受けて、聖霊に満たされた、わたしたちに起こる変化(生活、神様との関係)についても同じだと思います。見えないけれど、存在しておられる聖霊を意識することは、とても大切です。洗礼によって与えられた変化を意識していないと、神様がくださる恵みにも気づくことができないからです。

 「withコロナ」という言葉があります。ウイルスと共に生きていく新しい生活様式のことです。ペンテコステの出来事を、「withコロナ」にちなんで表現すると、私たちは、洗礼を受けた時に、「with聖霊」になったのです。もっと言えば、聖霊の働きによって「withイエス様」になったのです。3年前、厚生労働省が「新しい生活様式」を発表しました。でも、イエス様は2000年も前に、もっとすばらしい「新しい生活様式」をくださいました。その生活様式は、神と共に生きることができます。神様から力を受け、神様の影響を受け、本当の意味で人が生き生きとしていく生活様式です。そこに生きていきましょう。

 そして、ペンテコステの日、聖霊がくだった時、神様によって目が開かれ、イエス様を信じる人たち、神様の力を受ける集団が生まれました。それが教会です。教会は建物のことではありません。一人ひとりが神様から力を受けている共同体のことです。聖霊がくだった時、世界中の全ての人々が、イエス様の「新しい生活様式」に生きることができるようになりました。そして、そこに生きる者の群れが誕生しました。それがペンテコステの出来事だと言えると思います。私たちは、洗礼を受けてから、いつもイエス様が関わってくださっていて、神様から影響を受け続けているのです。              瀬戸幸治 補教師

2022.6.12「三位一体の神」ヨハネ16章12~15節

 私たちは、洗礼を受けた時から三位一体の神と直接の交わりが始まっています。神が人間を人格を持った存在としてお創りになられたのは、人格と人格の交流を持ってくださるためです。私たちはすごい特権に与っています。クリスチャンは、洗礼を受けて、罪を赦していただきました。全く新しい存在に生まれ変わらせていただきました。しかし、まだ自分の中で罪が死んでいないのです。「義人にして、同時に罪人」これが、現在のクリスチャンの姿です。だから、神との交流という特権から逃げようとする自分がいるのです。そんな私たちが悔い改めて、神様の元に戻ることができるのは、主が「三位一体の神様」だからなのです。

 イエス様は、言っておきたいことがたくさんある(12節)中から、言葉を厳選してお語りになられました。それが13節です。「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことことごとく悟らせる。」。 

 「真理の霊」とは、聖霊のことです。そして、聖霊が導いて悟らせてくださるその「真理」とは『神があなたを愛しておられる』ことと言えるでしょう。イエス様は、「聖霊が来ると、あなた方を導いて『神があなたを愛しておられる』ことの全体をわからせてくれるからね」と言われたのです。父なる神は、自分の子が十字架につけられるのを黙って見ておられました。人間の罪を、身代わりとして、独り子に背負わせるためでした。それは、あなたの罪を帳消しにして、あなたを救うためでした。自分の独り子を犠牲にするほどに、神があなたを愛しておられるからです。これが真理です。ただ一つの真理なのです。

 父なる神の愛がまずあって、その愛を携えてこの世に来てくださったイエス様。そして、神の愛を私たちに伝え、わたしたちを信仰に導く聖霊。私たちの主は、三つだけれど一つの神です。その主が私たちを支えてくださっているのです。だから、私たちは唯一の真理に生きることができるのです。                   瀬戸幸治 補教師

2022.6.19「キリストを着る者として」ルカ8章26~39節

 パウロは厳かに語り、薦めています。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤ3:26~28)。天地創造のはじめ、人は裸でした。「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」(創世記2:25)とあります。しかし、神さまの言葉に違反することで、「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」(創世記3:7)のです。そして、彼ら二人は、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れます。ところが、神の問いかけに対して、「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」(創世記3:10)。

 ありのままで、創造されたままの裸であっても、男と女は恥ずかしくはなかったのです。それ以上に、神さまのみ前にあって、ありのままで、そのままの姿で良かったはずが、裸を恥ずかしいと神に訴えるのです。これが罪の姿そのものと言えるでしょう。しかし今や、パウロは「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」と強く語ります。罪の泥沼に生きていた裸同然であった私たちが、今やキリストを着せていただいているのです。もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もなく、部族、民族、国家間を越えて。何故なら、キリストを着る者として、キリスト・イエスにおいて一つだからです。

 今や、主によって悪霊を追放してもらった人も、このキリストを着る者とされたのではないでしょうか。何故なら、「イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた」からです。        三ヶ嶋 徹 牧師

2022.6.26「命に至る道」ルカ9章51~62節

 だれ かと一緒に旅行に行くなら、同じ目的を共有できる人と行くと思います。自然が好きな人と買い物を楽しみたい人が一緒に行くと、旅自体が台無しになってしまうことがあるからです。今日、イエス様はエルサレムへの旅に出られます。そしてイエス様も、同行者の心を見られ、目的を共有できるのかを問われています。

 イエス様の旅の心は、9:51にあらわれています。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」とあります。「決意を固められた」は、原語では「顔を固定した」となります。エルサレムには十字架の死が待っています。これから十字架から引き離そうとする力や、誘惑がたくさんやってきます。それらに打ち勝つために、イエス様はエルサレムに顔を固定されました。もっと言えば、「すべての人類を救う」という神様の心を第一とされたのです。十字架に向かうイエス様の心は「神様の心を第一とする心」です。イエス様と旅をする者には、この心が求められます。

 一人目の弟子候補は、目的に問題がありました。「どこへでも従って参ります」と言っていますが、イエス様は心を見抜いておられます。この人は律法学者です。律法学者は、当時、上流階級に属していました。この彼は、この世の富、名声、自分の栄光、つまりイエスについて行けば、何か自分の徳になることがあることを期待して従おうとしていたのです。  二人目と三人目は、優先順位に問題がありました。神の心よりも、父を葬ること、家族にいとまごいをすることに心があったのです。そのような彼らに、イエス様は言葉をかけ、神を第一とする信仰へと招かれたのです。ルカは、三人の弟子候補がイエス様の言葉を聞いて、その後どうしたのかについて書いていません。なぜでしょうか。それは、今、一緒にイエス様と、天の父なる神の家に行く旅を続けている、私たちへの問いかけでもあるからです。それぞれにイエス様の言葉への応答が求められているのです。            瀬戸 幸治 補教師