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​2022年2月のメッセージ

2022.2.6「わたしを遣わしてください」ルカ5章1~11節

 「イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。」皆さん、ここには素晴らしいことが語られています。人々は奇跡の為ではなく、神の言葉を聞くために集まってきました。聞いて、生かされるために、その命の言葉によって、生ける神と交わりをするために。ここには「押し寄せてきた」とあります。私たちも御言葉を聞くために主に押し寄せてきているでしょうか。もし私たちが熱心に求めるなら、ゲネサレト湖畔に立っていらっしゃるお方は、ただ静かに立っておられずに、主イエスさまが群衆の熱意に応えてくださったように、私たちにも応えてくださるでしょう。ヨハネによる福音書16章24節に「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」今、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」シモン一人にこう語りかけておられます。神は一般概念ではなく、私たちに、そして私一人に語るお方のです。イエスさまは一匹の迷う羊のために、ひとりの放蕩息子のために、生きて働かれる神なのです。私たちの中にも、ただ岸辺で網を洗っているような信仰があります。今イエス・キリストというお方に、賭けることをしなかったら、いや、信仰は賭けごとではありません。主に全てをお任せしなければ、信仰的決断がなされなければ、神は語りたまいません。孤独や不安は、この私に対する神様からの語りかけを聞かないところから生まれます。 そして今、信仰は網を投じることから始まります。     牧師 三ヶ嶋 徹

2022.2.13「確実な未来」ルカ6章17~26節

  人生の多くのことは自分の思うようにはなりません。だからこそ、多くの人は「運」というものを意識するのでしょう。でも「運」は人の力ではどうすることもできないものです。ということは運任せの人生は、目の前の出来事に一喜一憂する歩みがずっと続くということであり、それは決して幸せな歩みにはならないでしょう。   

 イエス様は、「幸い」は選び取るものであり、不変の幸いを選び取りなさいと励ましてくださっています。では「幸い」とはなんでしょうか。イエス様の言われる「幸い」とは「神において不安のないこと」「神において死のない至福の状態」です。不幸はその反対です。ではどうして、「貧しい人々」「今飢えている人」「今泣いている人」「人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられる時」が幸いなのでしょうか。それは、何も持っていない人は、頼るものが何もないので、神により頼むことにみちびかれるからです。貧しさや、飢え、悲しさを深い次元で癒してくださり、豊かさをあたえてくださるのは神だけだからです。逆に、神に頼らなくても、生きていける人は、今は良くても、神へと導かれることがないので不幸(不安と死がやってくる)だということです。   

 イエス様は、「あなた方は」と語り掛けられました。誰にでしょうか。実は、4つの幸いも、4つの不幸も同じ弟子たちに語られたのです。私たちは、「富み」「満腹」「笑い」「人からの良い評価」、それらが本当の幸いをもたらさないことを知っています。でも、この体は弱く、わかっていても、私たちは富に頼る心を捨てきれない現実の中に生きています。だから、イエス様は、私の中にいる「幸いな人」と「不幸な人」を励ましてくださいました。  

 私たちの中にある「幸いな人」と「不幸な人」は、ルターの言葉を借りると、「義人にして同時に罪人」です。神の前で正しい者とされた新しい自分、でも同時に神から離れようとする罪人の古い自分がいます。そのような者が、「幸い」を歩み続けるには、どうすればよいのでしょうか。一言で言えば、イエス様から力をいただき続けることです。礼拝に与り続け、み言葉を聴き続け、聖餐に与り続ける。それが「幸いな人」であり、神様から祝福される者の歩みなのです。         補教師 瀬戸 幸治

2022.2.20「いと高き方の子となる」ルカ6章27~38節

 イエス様は「敵を愛しなさい」と言われます。「敵」とは6:22に「人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき」とあるため、信仰のゆえに嫌がらせをしてくる者です。今、キリスト教に対する社会からの迫害はありません。しかし、神様から引き離そうとする力は存在しています。例えば、親に信仰がなくて、子どもが教会に行き始めたとします。子供が宗教に取り込まれてしまうと考えると、教会に行かせないようにしたり、しかったりするかもしれません。こういう宗教上の敵を「愛しなさい」とイエス様はおっしゃっています。なぜなら、そういう敵は、変えられていくからです。だから、イエス様は、まず自分の方から「敵を愛し」「憎む者に親切にし」「悪口を言う者を祝福し」「侮辱するもののために祈りなさい」とおっしゃいます。敵になっている関係を、自分の方から変えて、祈ることを始めるならば、やがていつの日か相手の中にも神様が働いてくださって変えられる、その希望に私たちは生きることができるのです。 

 キリスト教の歴史は迫害の歴史でもありました。その中で「敵を愛しなさい」というイエス様のみ言葉は、多くの信仰者たちを生かしてきました。なぜなら、その人々が、神に背く敵である自分を愛してくださって、自分のために十字架で死んで下さったイエス・キリストと出会ったからです。イエス様が敵である自分をも愛して下さったことを知って、神の子とされて、神様の喜びを共に喜ぶところに、本当の喜びがあることを知ったからです。ですから、「敵を愛しなさい」は、本当の喜びの中へ招いてくださるイエス様の言葉なのです。    

 そしてその歩みの先には「いと高き方の子となる」(35節)という約束があります。父なる神のご性質が、この私に映し出されていくということです。私たちは神の子にされ、敵を愛する愛に生きるとき、神の子らしくなっていくのです。この約束を受け取る者として歩ませていただきましょう。補教師 瀬戸幸治

2022.2.27「イエス様の本当の姿」ルカ9章28~36節

 すごいことが、3人の弟子の目の前で起こりました。祈っておられたイエス様の顔の様子が変わり、服は真っ白に輝きました。そしてユダヤ人憧れのモーセとエリヤが現れたのです。ペトロは興奮して「仮小屋(幕屋のこと)を三つ立てましょう」と言いました。イエス様の栄光の姿を見て、いつまでもその素晴らしい状態に留まっていたいという願いがあったのでしょう。私たちも信仰生活の中で、神様の素晴らしさに触れて、ペトロのように感情が高ぶることがあります。しかし、そのような日々が毎日続くものではありません。淡々とした日、憂鬱な日、自分は本当にクリスチャンだろうかと思う日があります。でも大丈夫です。イエス様がそのような私たちの信仰生活を導かれます。イエス様は「エルサレムで遂げようとしておられる最期」について話をされました(31節)。「最期」は「エクソドス」という言葉で、日本語では「出エジプト」あるいは「出発」「脱出」という意味です。出エジプトは水をくぐった出来事でした。つまり、「洗礼」のモデルと言えるのです。私たちは洗礼を受けて、イエス様と一緒に水をくぐり新たに造りかえられました。新しい出エジプトを体験したのです。パウロは「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」(ロマ6:5)と言います。つまり、イエス様が栄光の姿を見せてくださったのは、単にご自分のすごさを示されたのではなく、イエス様が私たちを同じ栄光の姿にするための予告だったのです。イエス様の変容という大きな出来事は、イエス様がクリスチャンの未来がどうなっていくのかを垣間見せてくださった出来事です。モーセがイスラエルの民を約束の地に導いたように、今度はイエス様が私たちを永遠の栄光へと導いてくださいます。ですから、信仰生活に難しさを感じるとき、ぜひ洗礼を過去の事にしないで、日々新たに思い起こしてください。「洗礼によって自分は罪赦されている」そのことに信頼を置いて、イエス様と一つになっていれば大丈夫です。私たちの信仰は、変容の山でご自分の栄光を示してくださり、十字架の上で私たちの栄光を買い戻してくださった方の手の中にあるのです。     補教師 瀬戸幸治

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