​2022年1月のメッセージ

2022.1.2「世界の光、救い主イエス」ヨハネ1章1~12節

 この時代に生きる私たちも、世界の光として、世に来られた救い主イエスさまの証人なのです。同時に私たち一人一人はイエスさまの証言者に過ぎないことを覚えておくべきだと思います。それは、私たちの生活を通して、イエスさまを指し示し、イエスさまの命の光を反射させ、この救い主を浮き彫りにして映し出さなければならないのです。

 さて、人間を造られた神さまが人間の世界に誕生されるのに何と不可解な方法をとられたことでしょう。本日の1章14節には、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とあります。宇宙も地球も、動物も植物も、人間も創造された神さまは、最もみすぼらしい家畜小屋で誕生され、人間となって、この私たちの世界に入って来られました。何故、この様な姿で、この様な形で、この様な場所で神さまの御子は誕生されたのでしょうか。

 それは、どんなに物質的にも、精神的にも、霊的にも貧しい、みすぼらしい人も、神さまの所にそのままで、飾らないで、素のままで、来ることができる為なのです。高い所によじ登って行かなくても、神さまご自身の方から私たちの最低の所まで降りてきて下さったのです。誰も恥じることなく、誰も恐れることなく、誰も身支度して構えることなく、神様の所に自分のありのままの姿で、助けを求めて行くことができる為です。 

 私たちのどうしようもない、やり直すことのできない過去も、思い煩いの多い現在も、見通しの立たない将来も、全ては、このベツレヘムの家畜小屋で誕生されたイエス・キリストにあって、交通整理されるように、整えられ、まっすぐな道が敷かれて行くのです。その道は、私たちの罪をイエスさまの十字架の贖いによって赦される道です。また、誰も避けて通ることのできない死をイエスさまの死からの復活によって永遠の命の希望が与えられる道です。   牧師  三ケ嶋 徹

2022.1.9「イエス様と洗礼と私」ルカ3章15~16、21~22節

 正月に届く年賀状を読んでいると、時が過ぎ、時代が移り変わる早さに驚きます。そして、挨拶のメッセージの中に「過ぎ去っていく痛み」「変化への痛み」を抱えている方が、案外多いことに気づかされます。自分がよりどころにしていたものが移り変わっていく、あるいは失われる(社会的な地位、組織風土、人間関係、身体的な能力、健康、家族、住まい)。その中で、自分という存在、言い換えると「私は○〇です」と言える自分であり続けることは、随分難しことなのかもしれません。しかし、今日の聖書箇所の中に、わたしたちは変わることのない自分を発見することができるのです。 

 なぜなら、イエス様が洗礼を受けられ、洗礼を受けたイエス様が私たちに聖霊と火による洗礼を授けてくださり、私たちは全く新しい存在に造りかえられたからです。私たちは何者に造りかえられたのでしょうか。それは「神の子」です。私たちは、洗礼を受けて「神の子」にしていただいたのです。このことを私たちは今日、新たにして、この一年を「神の子」として歩みたいのです。  

 イエス様が洗礼を受けた後で、祈っておられる間に、天が開け、鳩の姿をした聖霊が、イエス様の上にくだってきました。すると、天の中から外へ声が聞こえてきました。「あなたは、わたしの愛する子、わたしの心に適う者」。「天がひらけた」という表現は、まるで神様が、両手で私たちの世界をぐっと開いて、上からのぞきこんでおられるように感じます。また、聖霊は鳩の姿で、その翼の下でイエス様を守っているように想像できます。そして、天からの声は、これ以上ない愛情表現ではないでしょうか。私たちは「神の子」です。そうであるならば、「あなたはわたしの愛する子。わたしの心にかなう者」、この言葉は、今日、私たちに向けて語られた言葉なのです。  

 この一年、喜びも、悲しみもあるでしょう。しかし、どのような状況の中にあっても、私たちは自分を見失うことはありません。永遠に変わらない「神の子」だからです。                                                                                瀬戸 幸治補教師

 

2022.1.16「酒とマリアとイエス様」ヨハネ2章1~12節

 創世記1章には、天地創造の6日間のことが記されています。神はまず光を造られ、次に水を分けられました。そして、6日目に人を男と女とに造られ、祝福されました。そして今日の「三日目に」から始まるヨハネの箇所も、1章から数えて6日目にあたります。まさに神が男と女を祝福(結婚)されたことと対応しています。これは、イエス様が男と女の世界を素晴らしいものにしてくださる「主」であることを、水をぶどう酒に変える奇蹟を通して示しているのです。しかも、ぶどう酒にかわった水は、ただの水ではありません。ユダヤ人が清めに用いる石の水がめの水です。それは、ユダヤ教の清めの儀式、食事の前に手や食器を洗う水でした。その水をイエス様がぶどう酒に変えると言うことは、救いは、戒律を守ることではなく、キリストの十字架の血によるものであることを示しています。ここに新しい世界が造られ、新しいいのちを造る主のわざが始まったということです。それが、カナの婚礼の奇跡の大きな意味です。  

 そして、新しいいのちを造る主は、私たちのために働いてくださる主でもあります。結婚式の主役である若い夫婦は、大変な危機に直面していました。そこで、マリアはぶどう酒がたりないことをイエス様に伝えます。イエス様の返答はユダヤの言い回しで分かりにくいですが、「私に考えがあって、その時が来たらちゃんとしますから」という意味でしょう。そして、言葉通り水をぶどう酒に変えられました。救いが与えられたのです。そのイエス様は、今も私たちの為に働いてくださっています。だから、私たちはマリアのように、イエス様の前に悩みを持っていくことができるのです。        瀬戸 幸治補教師

 

2022.1.23「神の告知」ルカ4章14~21節

 先週の日曜日は選挙の投票日で、選挙カーがたくさん通りました。でも名前しか伝わってこないので、立候補者が誰で、私の暮らしとどう関係するのかはわかりませんでした。ではイエス様は誰で私とどの様な関係なのでしょうか。イエス様は罪人と同じになるために洗礼を受けられ、神の心に適う「神の子」であることが証明されました。さらに、原典では、イエス様の系図の最後は「エノシュの子、セトの子、アダムの子、神の子」となっていて、イエス様はアダムの子孫、つまり100%人間であり、かつ100%神であることがわかります。つまり、「イエス様は、すべての人のメシアなんだ」ということです。そのイエス様は荒れ野で誘惑に打ち勝たれました。アダムは神様から「食べてはいけない」と言われていた実を食べ、神の言葉よりも自分の判断を上に置き、神を神とできない者になってしまいました。だから、イエス様は、食べずに申命記の神の言葉を一番上に置き、できない私たちに変わって、神を神とされ、神との関係を回復してくださいました。そのイエス様は、19節で「主の恵みの年を告げる」と言われました。「主の恵みの年」とは、50年に一度やってくる「ヨベルの年」のことで、その年は、土地を休ませ、負債が免除され、借地も返されました。つまり、「完全な解放と自由」の年です。イエス様が公の活動の第一声で告げ知らせてくださったことは、完全な罪からの解放と自由、それが実現するという神の宣言です。また聖書にはイエス様が真の大祭司であると示されています。つまり、イエス様は、神と私の間に立って今も私たちのために執り成しを行い、イエス様の犠牲によって罪人を赦し、喜んで受け入れる、という神様の「心」を示してくださる存在です。だから、私たちはイエス様を見て、イエス様の言葉に聴く時に、神様の御心を知り、御心を歩む者へと変えられていくのです。       補教師 瀬戸幸治

2022.1.30「続・神の告知」ルカ4:21~30節

 私たちは使徒信条の中で、「聖霊を、私は信じます。」と告白します。これをルターは「自分の理性や能力によっては、私の主イエス・キリストを信じることも、みもとに来ることもできないことを、私は信じます。」また「福音の説教を通して、聖霊によって提供され、われわれの心の中に贈られるのでなかったら、あなたも、私もいっさいキリストについては知りえず、キリストを信じることも、キリストを主としていただくこともできないであろう。」と解説します。つまり、聖霊が、私たちを教会においてくださり、教会を通して私たちに説教してくださるから、私たちはキリストとお出会いすることができるのです。神様の創造の業はすでに完了しています。そして、キリストによって贖いもまた成就しています。しかし、聖霊は、最後の審判の日まで、今も、私たち信仰者のために、そして福音が宣教され続けるために、ずっと働き続けてくださっています。    

 しかし残念なことに、今日の箇所では、会堂にいた人々は、イエス様の言葉に驚きましたが、彼らが見ていたのは、「大工のせがれのイエス」でしかありませんでした。つまり、彼らはイエス様を通して働く神に目を向けることができなかったのです。今日の箇所は、原語によると、二種類の「満ちる」という言葉で挟まれています。一つは、21節の「実現した」という言葉、もう一つは28節の「憤慨し」という言葉です。「実現した」も「憤慨した」も「満ちる」という意味の言葉です。しかし、同じ単語ではありません。21節の「満たされる」よりも、さらに「満たされる」状態を表す言葉が28節に使われている「満たされた」なのです。神の言葉よりも、人々の怒りが満ち満ちてしまっている状態が示されています。神の言葉を信頼して受け取らない者は、せっかく満たされた神の福音の告知よりも、人間の思いによる怒りに満たされてしまうのです。イエス様の言葉を、私たちは聖霊の助けによって、「はい、そうです。」と受け取りたいと願います。補教師 瀬戸幸治