top of page

​2021年7月のメッセージ

2021.7.4「見えないものが大事」 マルコ6:1~6

 イエス様は、ガリラヤ湖周辺で宣教活動をされていましたが、故郷のナザレにも神からの公な使命を帯びて、宣教と救済のわざのために来られました。しかし、ナザレの人々は、イエス様を「マリアの息子」と見て、「神の子」と見ることができませんでした。その結果、彼らは、イエス様の知恵(教え)を聞き、奇蹟を目撃しても、それを受け取ることが出来ませんでした。つまり、私たちの信仰生活も同じように、見えているものと、見えていないもの、その両方を信仰によって見ていかないと、イエス様がくださろうとしているものを受け取ることができないのです。

 したがって、ナザレの人々が受けた信仰のチャレンジは、私たちへのチャレンジでもあります。教えは、今の言葉で言えば、み言葉であり説教です。説教は、牧師が話します。しかし、同時に説教は、真に、ここにおられるイエス・キリストが、直接、私たちに語り掛けてくださっているのです。そして、イエス様の奇蹟も私たちは、聖餐式によって体験します。パンとぶどう酒は、あくまでパンとぶどう酒です。しかし、同時にキリストのからだと血なのです。聖餐式の目的は、私たちに罪の赦しをえさせるためであり、聖餐には私たちを強め、守り、永遠の命に至らせる力があります。

 説教は牧師が語り、聖餐式では小さなパンとぶどう酒が配られます。神は見えるものを通して、見えないもの、つまり、罪の赦しと新しい命を与えようとされているのです。これらを受けとることは難しいことではありません。受け取る信仰があればよいのです。信仰によって、見えないものを見ていくときに、キリストが与えようとしてくださっている恵みを、私たちは受け取ることができるのです。  瀬戸幸治補教師

 

2021.7.11「何を恐れ、何を選択するのか」 マルコ6:14~29 

 今日の主人公はヘロデ・アンティパス(ヘロデ大王の息子)です。マタイとルカの福音書は、「領主ヘロデ」と記しています。しかしマルコだけは、彼を王と表現します。自分を王としているものに、洗礼者ヨハネは律法を語りました。するとヘロデは「ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた(6:20)」のでした。神の言葉である律法に照らされて、本当の自分を発見し、神の言葉に耳を傾ける者に変えられていったのです。私たちはどうでしょうか。自分を王として、他者を自分の道具とする自己中心的な生き方をしていないでしょうか。私たちは自分の力では本当の姿を知ることはできません。それは神の言葉である律法によってはじめて知ることができます。そして、どうすることもできない自分の罪の現実を知り、唯一の救いであるキリストへと導かれるのです。しかし、ヘロデは自分の姿を知っても神に赴くことができませんでした。なぜなら、彼は神を恐れ、悔い改めることがなかったからでした。結局、ヘロデが恐れていたものは、洗礼者ヨハネを通して悔い改めを迫る神ではなく、洗礼者ヨハネ自身であり、また、自分の誕生日の宴会に集まった人々の目だったのです。今日の聖書箇所の冒頭に、イエスの名がヘロデの耳にも入った時、ヘロデは「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」(6:16)と洗礼者ヨハネを恐れ続けています。自分の罪を悔い改めない者にとって、イエスの名は裁き主として響くのです。しかし、自らの姿を知り、悔い改め、罪を赦されたものにとって、イエスの名は救い主の到来を示す希望として響き渡るのです。神を恐れ、キリストを王とし、神の国に生きる者でありたいと願わされます。      瀬戸幸治補教師 

 

2021.7.18 彼の名は、「主は我らの救い」 エレミヤ23:1~6 

 さて、洗礼者ヨハネが斬首刑に遭う、暴君が荒れ狂い、義人が慰み者にされて殺される、まさに政治の腐敗した時代でした。その時だからこそ、イエスさまにとっても、弟子たちにとっても静かな祈りが必要だったのではないでしょうか。しかし群衆はあくまでもイエス様を求め、イエス様に従おうとします。魂の糧に飢えた者、身体の苦痛に悩む者たちは、或いは舟に乗り込み、或いは陸伝いに歩いてイエス様を追ったのです。

 「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。」とあります。そこでイエス様は「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。おそらく弟子たちは興奮した面持ちで、伝道旅行の成果をイエス様に報告したことでしょう。それを聞かれた主は「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と勧められました。今この伝道旅行の成果は神様からの賜物ですから、再び神様に返さなくてはなりません。もちろん、肉体や精神の疲れを休める意味もあるでしょう。しかし、休養とは、ただ疲労を回復する手立てと言うだけでなく、同時に神様に帰ることが含まれなければ、それは真の休養にはなりません。安息日に神様を礼拝するのも同じ理由なのです。

 そこで主は、先ずは救いの御言葉を持って、真の牧者として、彼らを養ってくださいました。熱く主が語られる言葉に、時間の経過も忘れるほど群衆は聞き入っていたのです。群衆の食事について弟子たちが気づきました。しかしイエス様は弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われます。彼らは無理です。不可能ですというのです。私たちは何かをする時に、いつも周りの環境と自分の能力を問題にします。そして諦めるのです。しかし事を成すとき、主が成してくださることを私たちは忘れていないでしょうか。僅かなパンと魚を用いて、多くの人を養ってくださるイエスさまの御業を忘れていないでしょうか?イエスさまこそ、真の牧者なのです。                   三ヶ嶋徹牧師

2021.7.25 「私たちを生かす方」 ヨハネ6:1~15、列王記下4:42~44 

 五千人の給食の出来事は4つの福音書で取り上げられています。そしてヨハネだけが、イエス様が「どこから五千人分のパンを買えばいいのか?」と弟子を「試された」ことに触れています。6節にあるようにイエス様は「御自分では何をしようとしているか知っておられた」にも関わらず、弟子に質問されました。 そして、フィリポもアンデレも目の前の課題を解決することができませんでした。私たちも、同じではないでしょうか。健康の問題、家庭の問題、経済的な問題、社会の問題、自分の将来のこと、自分ではどうしようもない現実を前にしてフィリポやアンデレのように「どうにもなりません」と言わざるをえない存在ではないでしょうか。

 列王記下の出来事は、大麦パン20個を100人で食べる話です。ここにイエス様が試されたヒントがあります。召使が「どうしてこれを百人の人々に分け与えることができるでしょうか」と言うと、預言者エリシャは「人々に与えて食べさせなさい。」と命じます。しかし、奇蹟を起こしたのは、エリシャの力ではありません。「主の言葉」です。「主は言われる『彼らは食べきれずに残す』」。そして主の言葉のとおり、彼らは食べきれずに残したのです。神の言葉には力があります。その神の言葉がどういうものであるのかをヨハネはこう書いています。

 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」。ヨハネはズバリ、言はキリストだ、と言っているのです。つまりキリストに力があるのです。だから、どうにもできない試みに合う時、「あなたはどうする?」とキリストが問うて来られる時、それは私たちにできない事実を突きつけ、絶望に追いやる言葉ではなくて、「私に信頼を置きなさい」と招いてくださる神の言葉なのです。神の言葉であるキリストには力があります。私たちは、キリストに信頼を置く時に、自分の限界を抜けだして、キリストの力の中を生きることができるのです。人は皆、それぞれに解決できない課題や不安をもっておられることでしょう。でも、私には解決できない課題、それに対して、すでに「ご自分では何をしようとしているのか知っておられる」キリストが、つまり、すでに私の問題の解決を用意してくださっている主が、今、ともにいてくださっているのです。                     瀬戸幸治補教師

 

bottom of page