​2020年12月のメッセージ

2020.12.6「神の言葉はとこしえに立つ」マルコ 1:1~8 

 「福音」とは、「喜びのおとずれ」とも言います。「喜び」というからには、どんなにか、美しい花園やきれいな音楽が奏でられているかと思えば、最初に出てくるのは「荒野」です。しかし、聖書の中において、「荒野」は大きな役割と意味を持っています。イスラエルは、モーセをして荒野を40年彷徨い、その間神はマナをもって彼らを養ってくださいました。また新約では、イエス様が荒野で40日の間、断食をされた後、悪魔の誘惑に遭われました。さらにイエス様は、大きな奇跡を行われる前と後に一人淋しい所(原語では荒野)に身を置かれました。そこはただ神にのみ依り頼むところです。そう言う意味で、「荒野は、信仰者の学校」と言えるでしょう。私たちの人生においても荒野と思えるような時があります。荒野を恐れてはなりません。では、荒野を泉の湧き出る場所とするには、どうしたらよいのでしょうか。それには、用意が、準備が必要です。主をお迎えするための心の道備えが必要なのです。それは洗礼者ヨハネが言うところの「悔い改め」なのです。悔い改めとは神様に向かって方向転換することです。面白いことにギリシャ人は「一度起こってしまった過去は、取り返しがつかない」と言います。しかし、福音においては違います。ルカによる福音書に出て来る放蕩息子は、父のもとに帰ることが出来るのです。神に立ち返る時、その罪を赦し、義の衣を着せ、喜んで受け入れてくださるのです。ここでヨハネの伝えた「悔い改め」は、「罪の赦しへと導く、悔い改めのバプテスマ」と言われます。しかし、「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」(1:8)。聖霊のバプテスマは新生と審判を象徴していると思われます。そしてそれは共にイエス・キリストによって実現するのです。 牧師  三ヶ嶋 徹

 

2020.12.13「天の父の望」 Ⅰテサロニケ5:16~24 

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」。これこそ天の父の望みである。私達も喜びを望みますので、その点では天の父と私達の望みは一致します。ただ少し戸惑うのは、大きな苦難の時です。そんな時には「喜べない」と感じることもあるでしょう。天の父は私達の苦しみを理解できない方ではなく、使徒パウロも苦難をよく知っている人物です。またこの御言葉は現実逃避や楽観主義を勧めているのでもありません。喜びの根拠はどこにあるでしょうか。

 聖書の示す三つの現実があります。①罪の現実。人は自分中心ですから、幸せを求めて争うという矛盾が起こります。また自己防衛のため他者を攻撃する。このような罪の現実があります。②その罪に対する神の怒りの現実(律法)。神は罪を甘く見る方ではありません。罪に対して神は悲しみと怒りをあらわされる。③しかし天の父は、世を裁きたいのではなく、むしろ救いたいという神の愛の現実(福音)がある。人はこの世の罪の現実に目を向け、「なぜ神がおられるなら」と問い、またこの世の範囲での解決を願います。しかし聖書は律法と福音を伝えます。律法は罪を示し、私達がただ神の前にへりくだるしかない現実を示します。ところが福音は、へりくだる私達の頭を挙げさせ、「あの十字架を見よ」と示すのです。あなたの罪はキリストの十字架によって赦された。だからいつも喜んでいなさい。私達は、キリストによって、いつも喜ぶことができる。絶えず祈ることができる。すべてのことに感謝することができるのです。天の父は、私達がキリストにあって、この喜びに与ることを望んでおられます。主イエスこそ私達の希望です。

                                       牧師  栗﨑 学

2020.12.20「主があなたと共におられる」ルカ1:26~38

 「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」。これは祭司ザカリアに告げられたことよりはるかに信じられない内容と言えるでしょう。当然のことながら、マリアは酷く戸惑い「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と言います。けれど、マリアのこの応答は疑いや不信から出たものではなく、そうなるとの説明を求めたものであることが前後の文脈から分かります。マリアのこの応答は、告知が信じられずにしるしを求めたザカリアの応答とは対照的であると言えるでしょう。また、キリスト教にとって、イエス様の処女降誕という事実はきわめて重大な意義を持ちます。マリアは天使の言葉を疑問視して拒否することも、逆に天使の言葉を鵜呑みにすることもしませんでした。これはどちらかと言えば、前向きに説明を求めたと言えるでしょう。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない」この答えに多くの人は躓いてしまうかも知れません。言われていることが私たち人間の経験と理解の尺度をはるかに越えているからです。しかし、このマリアのように真摯に神の真実を求めようとする姿勢を持つならば、事態は大きく変わって行くはずです。どうでしょうか。私たちクリスチャンにとって、おとめマリアが子を宿すと言うことが問題でなくなったのは、聖書の神が真の神であり、聖書に記されている数々の奇跡が、真実のことであるなら「神にできないことは何一つない。」世界を創造し、歴史を支配し、私たちの救いの為に神が人となって世に下られるのです。

                                 牧師三ヶ嶋 徹

 

2020.12.27「主の全ての恵みに心をとめよ」ルカ2:22~40 

 シメオンとアンナ、彼らの望みと祈りは常に未来に向けられていたと言えるでしょう。それは何よりもイスラエルの人々の<慰め>と<救い>を求めていたのです。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。~これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」今ここでシメオンは、救い主メシアの使命について預言的に語ります。シメオンの言葉を聞いたイエス様の母マリアは、その言葉が天使ガブリエルの言葉つまり「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(ルカ1:32,33)を思い出したことでしょう。更に「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光」と言う異邦人への救済に言及していることに驚いています。(イザヤ42:6,49:6)。それはまさに救い主イエス様こそ、全ての人類を死の陰の暗黒から神の赦しへ導こうとする光であるのです。女預言者アンナはシメオンの言葉の言葉に付け加え、「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。」とあります。この時、イスラエルの慰めと救いを待ち望んでいた人々の群は小さかったでしょう。これは私たち日本のクリスチャン人口を考えても同じですね。ここにやはり神さまから与えられた使命があることを忘れてはならないと思うのです。さらにまた、彼らの希望の実現はまだ30年以上も後になるのです。つまり十字架と復活を待たなければならなかったのです。けれど、彼らは旧約聖書の真に信仰深い全ての人々と共に、「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」(ヘブライ人11章13節)。                  牧師 三ヶ嶋 徹

近畿福音ルーテル津教会
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