あなたの教会
神様はあなたを愛しておられます。
どんな時も共にいてくださいます。
今日、神様の愛に出会いませんか?
ようこそ!あなたは
2020年11月のメッセージ
2020.11.1「神さまは共にいてくださる」創世記28:10~22
ヤコブは、父イサクをだまし、兄エサウを出し抜いてしまった。そして今や逃亡者として、不安と恐れ、心細さと孤独を噛みしめながら、約800キロも離れているハランと言う地への旅を続けなくてはならないのです。旅の途中、野宿をして石を枕にして眠りにつかなければなりませんでした。そこで神さまは、ヤコブに夢の中でご自身を現されたのです。そうすると神のみ使いたちが天と地をつなぐ梯子を上ったり下ったりしているのを見たのです。それは神さまの働きが天においてだけではなく、地上においてもなされ続けていることを表しているのです。それは私たちが毎週礼拝において祈っている主の祈りにもある通りですね「御心が、天に行われるとおり、地にも行われますように。」
さて神さまは印象的な光景をヤコブに見せながらヤコブに語られます。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」ヤコブが抱いていた不安と恐れは消え去りました。『ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」そして、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」』(創世記28:16,17)。そしてヤコブは、その場所の名をベテルと名付けます。ベテルとは、「神の家」を意味する言葉です。逃亡の旅を続ける状況が変わった訳ではありません。しかし、両親の家での守られた生活を失ったヤコブの目は、神さまが共におられると言う確信に大きく開かれていったのです。 牧師三ヶ嶋 徹
2020.11.8「魂の備え」マタイ 25:1~13
イエス様は再臨について、私たちがどのように備えるべきかを示されました。このたとえからわかることは、花婿が夜中に来たと同様、イエス様はある日、突然来られる。それは人々には遅れているように思われる。また眠り込んでしまう。
実際の眠りではなく、霊的に眠り込んでしまうとは、どのような状態でしょうか。私たちの信仰生活には、心燃やされ、喜びで満たされる時ばかりではなく、霊的に落ち込む時、試練、困難に悩む時、祈れない時など様々です。自らの信仰について、わからなくなってしまう、疲れてしまうなども。「“霊”の火を消してはいけません」(Ⅰテサ5:19)。しかし時に眠ってしまうこともあるでしょう。たとえの10人も皆眠ってしまった。ただ、愚かさが露呈したのは、油の用意をしていたかどうかでした。
この箇所で、油とは「聖霊」を指すとの解釈があり、非常に示唆に富みます。私たちの信仰のともし火は、聖霊がなければすぐに消えてしまうのです。そして聖霊とは、再臨の時に慌てて用意できるものではない。他の信仰者から分けてもらうこともできない。急いで教会へ駆け込んでも間に合わないのです。聖霊はどこで得られるのか。まさに主が備えてくださる礼拝において、御言葉を通して、聖霊をいただくのです。これによって信仰のともし火をともし続けることができる。賢い者たちはちゃんと備えていたため、花婿が遅れ、眠ってしまっても、その時にはともし火を持って主を迎えることができるのです。
しかし間に合わなかった者に対しては、非常に厳しい姿勢が示されています。主の再臨の時、問われるのは「人情」ではなく、「目を覚ましていなさい」との主の言葉に従ったかどうかなのです。主を待ち望む、魂の備え。主が備えてくださる礼拝において聖霊をいただき、信仰の火をともし続けて、主を待ち望みましょう。必ず大きな喜びに与ります。 牧師 栗﨑 学
2020.11.15「主の日に備えて今を生きる」マタイ25:14~30
主は「タラントン」のたとえと題して、自分の財産を僕たちに預けて旅に出る主人のたとえをお語りになります。イエスさまはご自身の十字架の死が近づいていることを意識して、このたとえを語られたのではないでしょうか。主イエスが去られた後、彼ら弟子たちに福音宣教の使命を委ね、そのために必要な賜物を与えてそれを弟子たちがどのように用いて、働くべきかを考えさせようとなさったのではないでしょうか。再臨の日に備えて、主が再び来られる日がいつであれ、神さまから与えられた賜物を忠実に働かせ、全力をあげて真剣に生涯をおくって行くことが求められているのです。
この主人は、僕たちを呼んで、相当な財産を預けたのです。一タラントンは6千デナリオンです。私たちはこのマタイによる福音書において、度々タラントンやデナリオンについて、イエスさまがその譬えにおいて用いられていることを学びました。特に20章の「ぶどう園の労働者」のたとえにおいては、一デナリオンは当時の労働者の一日の賃金でした。であれば、五タラントンは約100年分の賃金に相当する大変な金額であることが分かります。財産を預けられた三人の僕のうち、五タラントン預けられた者と、二タラント預けられた者は、それを資本金にして一生懸命商売をし、それぞれ五タラントン、あるいは二タラントン儲けたのです。やがて主人が帰って来て、彼らと清算を始めます。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。』主人は彼らに対して、「忠実な良い僕だ」とほめ、さらに「多くのものを管理させよう」と言われます。ここで面白いことに「忠実だ」と主人が言われた言葉は、本来これは「信仰のある」と言う言葉なのです。 主のみ前で求められるのは「信仰」なのです。 牧師 三ヶ嶋 徹
2020.11.22「この最も小さい者への奉仕とは」マタイ25:31~46
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」とあります。右に分けられた者には、神の国に入る特権が与えられますが、左に置かれた者には永遠の罰が与えられるのです。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』羊と山羊をより分ける基準となったのは、イエス様に対して行った愛の業でした。神の国を継ぐ者として選ばれたのは、主が飢えていたときに食べさせ、渇いたときに飲ませ、旅人であったとき宿を貸し、裸の時に着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた者でした。
しかし王にそう言われても、選ばれた者は少しもそれに気づきませんでした。しかし主は、彼らのしたそれらの業は、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言われます。私たちは直接イエス様に対してなら、万難を排してでも奉仕するでしょう。たとえば、イエス様が私たちの目の前に現れて、空腹なので、何か食べさせて欲しいと言われたら、自分の食べる物を減らしてでも差し上げるでしょう。しかし、小さく取るに足らない者や、価値の認められない者であったなら、頼まれたからと言って、果たしてそうするでしょうか。主は、この世の生活において、どんな小さな者や小さなことに対しても、イエス様に対してするように成せと言われます。パウロは語っています。「人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。」(エフェソ6:7)、「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」(コロサイ3:23)。 牧師 三ヶ嶋 徹
2020.11.29「深く確かな安心」マルコ13:24~37
「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」恐ろしい天変地異が起こるのかと身震いしますが、聖書は恐怖のメッセージを伝えようとしているのでしょうか。ある人たちは、「物理的現象を言っているのではない」とか「象徴的表現であり文字通りの解釈をする必要はない」としますが、私たちは、「それほど神経質に考えることもない」と言うようなこともあってはならないと思います。ヨエル書にも、同じような言葉がありますが、それと共に「しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。」と記されています。そう!「しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」のです。そして、いちじくの木から学び、目を覚まして居るようにと諭されます。「目を覚まして待つ」とはどう言うことでしょう。その日その時が分からないから、その兆しを見逃さないために、「あの現象はそれではないか・・・。こんな事が起きるのはその予兆ではないか等々・・・」と目を覚ましているのでしょうか。勿論、そんな現象や出来事などどうでもよいと言うわけではありませんが、もっと心得なければならないのは、「家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ」にあります。「仕事を割り当て」=これは僕の日常的な仕事ではなく「主人の仕事」が割り当てられ責任(権威)が与えられた仕事です。イエス様が私たちに託して下さった仕事に忠実であり、キチッと報告出来るように目を覚まし備えをしたいものです。それは、未来に希望をもって待ちながら目を覚ましているのであって、未来に不安を抱きながら、この世の滅びを恐れながら、目を覚ましているのではないのです。私たちは「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」と言われた神様に信頼し、それを根拠に生きるところには、自分がいろいろな事を知っていると言う知識によって得られる安心とは比較にならない、否、それより遙かに深く確かな安心があるのです。 牧師 栗﨑 和重