​2020年9月のメッセージ

2020.9.6「信仰と心を一つにした教会」  マタイ18:15~20   

 今日イエス様は、「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、」と語られます。二人ということは、たった二人ともとれます。しかし、コヘレトの書において伝道者は語っています。「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。更に、ふたりで寝れば暖かいが、ひとりでどうして暖まれようか。ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。」(コヘレト4:9~11)とあります。しかし、二人は、一人ではありません。群れの最小の数字ですから、教会の人たちが地上で心を一つにして求めるなら、と解釈することもできます。心を一つにして祈るためには、その祈る人たちは、互いに良い関係でなければ心を一つにすることはできません。神様は、たとえ心が伴わなくても、祈りながら行動を起こすときそこに共にいて下さり、憎しみを神の愛で満たし、あなたの心を変えて下さることが出来るのです。「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」とイエス様はおっしゃいます。愛し合うことによって、再び、兄弟たちが教会に帰って来る時に、失われた羊を見出した喜びが天の御国を揺るがすのです。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。と語り、マタイの福音書はまさにわたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)と約束されています。                 牧師 三ヶ嶋 徹

 

2020.9.13「なぜ赦さなければならないのか」 マタイ18:21~35 

 イエス様は「赦しなさい」と教えます。その理由を教えるためにたとえを話されました。三つのポイント。①この家来は王に必ず借金を返さなければならない。つまり私達は神様に対して、全ての罪を清算しなければなりません。一つの罪でも残っている場合は、永遠の滅びという報いを受けます。そこでこの家来は「必ず全部お返しします」と応えます。その金額は一万タラントン。これは約4200億円もの莫大な金額です。つまり②借金は自分で返せるような金額ではない。しかしこの家来は「もう少し待ってください」と言う。つまり彼は何にもわかっていないのです。私達は自分が神様に対し、どれほど多くの罪の負債を抱えているのか何にもわかっていないのです。③そんな家来を王は憐れに思い、彼を赦して帳消しにしてやった。ここで注目すべきことは、王にとって4200億円もの金額は決して小さくないということです。その莫大な金額に値する痛みを、王自身が負われた。すなわち私の莫大な罪の負債を、神は御子イエス・キリストの命の犠牲によって支払われたということ。

 しかしこの家来は約70万円の借金をしている者を赦しません。この金額だけを見ると決して小さな額ではない。だから人を赦せないのです。しかし私達がまず知るべきは、私の莫大な罪が、キリストの十字架によって支払われ、完全に帳消しにされたことです。聖書アニメの中で、王様が愚かな家来にこう言います。「私はお前を再び赦してやりたい。しかしお前が人を赦さないのに、どうして私がお前を赦してやることができようか。」罪の赦しは、罪からの解放です。十字架により、私の罪が赦されたことで罪から解放されたように、人の罪を赦すことで、自分自身の心も人の罪から解放されるのです。  牧師 栗﨑 学

2020.9.20「後の者が先になる、神の気前良さ」マタイ20:1~16 

 前章で、ペトロは「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何がいただけるのでしょうか」(マタイ19:27)とイエス様に報いを求めています。そこで主は決して報いを否定されませんでした。がしかし、「先にいる多くの者が後になり、後のいる多くの者が先になる」と言われました。報いはあっても、それは、私たちの計算や取引ではありません。むしろ一方的な神様の恵みなのです。打算的な世の中にあって、信仰だけは、計算づくではなく、神さまの恵みと愛の自由な世界であるはずです。私たちの信仰にもこのように何がもらえるのか、と言う計算が入ってきたらどうなるのでしょうか。そこで語られたのが、このたとえ話です。「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。」このように信仰というものは、私たち人間が求め、始めることではありません。「家の主人」である神様が、自分の方から朝早く出て、私たちの方に向かって来られるのです。神の招きなのです。それも一片の葉書や招待状ではなく、招く主人自らが出向いて来られるのです。つまり、神様ご自身、人となって私のところに来てくださったのです。したがってここで起こっていることは、神様が先なのです。神様はこの恵みの出来事にあずからせようと、ほかならないあなたを招いておられるのです。神はイエス・キリストにおいて、私たちの生活のただ中に立っておられるのです。    牧師 三ヶ嶋徹

 

2020.8.27「神の国に入る者たち」 マタイ21:23~32 

 「ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、」とあります。さて、ここでは弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。とあるように、自分たちこそ義人であり、律法を尊重し、口では、神に服従するようなことを言うのですが、その内実は何もないのです。それに比べて、兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。とあるように、初めは神の律法に背き、神の御心を行おうとしなかった彼ら、徴税人や娼婦たちでしたが、今、イエス様は「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。」と言われます。また、ルカによる福音書では「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(ルカ15:7)と教えておられます。ヨハネが来て義の道を示したとありますが、義の道とは、神の御前に心から悔い改め、自分の罪を告白して神に立ち帰る道のことです。バプテスマのヨハネはマタイによる福音書で『ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。」』(マタイ3:7)と言って、彼らが義の道を受け入れないことを見通していました。主は、徴税人の中からマタイがイエス様の弟子として導かれたことを。「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」(マタイ9:9)まさしく、このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になるのです。 

                                     牧師  三ヶ嶋 徹