​2020年8月のメッセージ

2020.8.2「主の手に全てをささげて」マタイ14:13~21

 『弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」』この分量は、弟子たちとイエス様の夕食に足るだけのものと言えます。明日のことを思い患らわぬ主の弟子たちには、余分の食物はなかったと言えます。ここで、私たちの勘違いは、「私たちには出来ない」と言うことが、「私たちに何もすることがない」ではありません。何故なら、私に不可能だと言うことは、イエス様にとっても不可能だと言うことではないからです。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」と言うこの言葉は、ギリシャ語では「ない」と言う否定形から始まっています。「・・・しか・・・ない」、これは私たちの言う決まり文句です。しかしイエスさまは、この否定形を積極的な肯定形に変えられます。つまり「パン五つと魚二匹ある、それをここに持って来なさい」と言われました。私たちは本当に持っていないのでしょうか。パン五つと魚二匹はあります。ただそれを出さないのではないでしょうか。私たちは良く現状分析をします。統計を取ったり、アンケートを採ったり、そしてまた分析をします。しかし、そこから何が出てくるのでしょうか。また、分析し、研究しますが、参加しません。信仰とは、そうではなく、主が事を成しておられる。その主の御業に参加していく、たとえ小さな才能、賜物、能力、時間、献げものであっても、小さな五つのパンと二匹の魚を持ってでも主の御業に参加しようとすることです。「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。」ここでイエス様は、ご自分の手で五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで祝福されたのです。たとえどんなに小さなものであっても、自分の手の中だけで留まっていればそのままでしょう。しかし、ひとたびイエス様の手の中に渡れば、実に主ご自身が豊かに祝福して下さるということなのです。  牧師 三ヶ嶋 徹

 

 

2020.8.9「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」マタイ14:22~33

 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。今イエス様は、弟子たちから遠く離れていてその姿は見えません。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。(1スタディオンは185m)。舟はもう湖の真ん中に近くにさしかかっていました。しかし、その舟にはイエス様はおられません。弟子たちだけで漕がなくてはならないのです。これはちょうど現在の私たちの教会の姿ではないでしょうか。今もイエス様の姿は見えません。しかし、キリストに従う生活は、イエス様を見るのでなく、「見ずして信ずる」信仰生活と言えるでしょう。今、外からの危険が迫り、舟は波に飲み込まれそうになります。それなのにイエス様は遠く離れて見えないのです。けれどここには、イエス様からの強制があったことを忘れてはなりません。それは「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ」たのです。つまり弟子たちの気が進まないのに、イエス様が強制して、弟子たちだけで向こう岸に行かせたのです。ここには、私たち人間の意志ではなく、別な意志、つまりイエス様のご意志が働いています。私たち信仰者の漕ぐ舟も、世の反対の風に悩まされ、世俗の波に飲まれそうになります。しかし、たとえそうであっても、そこにはイエス様のご意志があることを忘れてはなりません。私たちの今日のキリスト教会も、神のご意志の中に、安けき港である神の御国に向かって航行していることを覚えましょう。  牧師 三ヶ嶋 徹

 

2020.8.16「キリストを信じる信仰によって救われる」マタイ15:21~28

 この時代も、現在も、自分では、また周りの者にもどうにもならないような力で、私たちを苦しめる悪の力はあるものです。特に、サタンは吠え猛る獅子のように私たちキリスト者を襲います。悪霊は、周りの力を強大に見せ、神を小さく見せるのです。そして神に祈り、頼まないようにさせるのです。ところがこのカナンの女は、この母親は決して諦めませんでした。ただただ主の憐れみに頼りました。体当たりでぶつかっていったのです。ところが、更に「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。主が語られた言葉とは到底思えないような何か冷たく感じる言葉です。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。ところが更にまた、子どもたちのパンを取って子犬にやってはいけない」これも実に一見冷たく思えるような主のお言葉しか返って来ないのは何故でしょうか。「イスラエルの失われた羊」は、神の救いを必要とするイスラエル人であって、「子どもたち」とは、選民イスラエル人を指し、「パン」は神による救いの祝福、さらにユダヤ人は異邦人を軽蔑して「犬」と呼んでいたそうです。つまり主は暗にこの女性の申し出を断ったのです。ところがその言葉に対しても怯むことなく「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と答えました。子犬と言われても腹を立てるどころか、謙虚にそれを認め、「食卓から落ちるパン屑はいただく」と言って、ユダヤ人に与えられた神の祝福のおこぼれにあずかりたいと、自分の心からの願いを表します。この人はどこまでも主の御前にあって謙虚でした。イエス様はこの女性の信仰を誉め、「あなたの願いどおりになうように」と語られた時に、この人の娘の病気は癒されました。

                                        牧師 三ヶ嶋 徹

 

2020.8.23「あなたにとってイエス・キリストとは」マタイ16:13~20

 「あなたはメシア、生ける神の子です」。とあります。ペトロは知的であるより情緒的であり、思想の人であるよりは行動の人であると言えるでしょう。イエス様の問いに対する彼の反応と答えは早かったと言えます。しかし主と共に3年間行動を共にし、不信仰に陥りつつ、それでも常にみ言葉を聞いて励まされた弟子たち一同が、ここにおいてペトロと同じ信仰に到達したと言っても疑いないと思うのです。

このペトロの告白は重大な告白と言えます。主をキリスト、つまりメシアと告白しているのです。弟子たちにとって、イエス様は預言者や、メシアの先駆者ではなく、救い主そのものだったのです。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。」バルヨナとは「ヨナの子」という意味で、ヨナとはペトロのお父さんの名前です。今、神の奥義がギリシャの賢人たちではなく、ガリラヤの漁師の子ペトロらに示されたことは驚くべき恵みと言えます。「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」以前の口語訳聖書では「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。」となっています。「血肉」と言う言葉が使われていて、「血と肉」と言う言葉で、ユダヤでは人とか人間性とかいう意味で用いられていました。つまり、ペトロがイエス様をメシアと告白したことは、ペトロの人間性や知性の判断によるものではなく、天の父に由来するものである。「血肉」は人間の意見を作り出しますが、「信仰」は神様が与えられるものなのです。

 第一に、神の宣教計画は、人を用いて進められるということです。つまり使徒たち、復活のキリストの証人通してです。なぜなら、証人は事実を証言します。この事実こそ説得力を持つものは他にないのです。では、事実とは何を指さしているのか。言うまでもなく、イエス・キリストに起こった出来事、すなわち十字架と復活の事実です。そして弟子たちは、この歴史的な出来事の目撃者なのです。だから彼らの第一の任務は、イエス・キリストに関する事実を証言することなのです。次に、自分自身の身の上に起こったこと出来事を証言することなのです。

 第二に、宣教の範囲です。「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで」と、主イエスはその宣教の広がりを予告されました。確かに使徒言行録の2~7章は「エルサレム」での宣教活動、8,9章には「ユダヤとサマリア」への広がり、そして10~28章には「地の果てにまで」及ぶ進展の過程が描かれています。しかし、既に語られているように「エルサレムを離れないで」、エルサレムから宣教は始められなければならなかったのです。エルサレムは弟子たちにとって、決して居心地の良い場所ではありません。躓きや失敗をした苦い経験の場でもあるし、彼らのそうした失態を知っている人々も多い。しかし、そういう場でこそ証をしていくことこそ、伝道にとっては大切なことではないでしょうか。旧約の預言者ヨナは、ニネべに行くように神から命じられたが、彼はそれに従わす他の国へ行き、思いがけない災難に遭ったのでした。しかし神は、その後悔い改めたヨナに、再びニネべに行くように命じられました。そしてここには何よりも、福音の普遍性が語られているということです。福音は全人類、全被造物、全世界のためのものであるという真理が示されています。宣教の範囲は、まさにグローバルであるのです。        牧師  三ヶ嶋 徹

 

2020.8.30「主とともに」  マタイ16:21~28

 突然のイエス様の死と復活の予告は、ペトロにとって、到底、受け入れられないことだったに違いありません。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」とペトロが言うのも、無理のないことのように思えます。そんなペトロに、イエス様は「サタン、引き下がれ。」とおっしゃいました。どうして、いきなりサタンなのでしょう。この世界で起こる出来事は、目に見えることだけで判断できるものではない。神様の霊に関わること、神様に敵対する霊を相手にするものだと言われているかのようです。神様の霊の導きがなければ、私たちも、神様にある大切な意味を見逃してしまいます。イエス様の死と復活には、人類の救いのための神様のご計画がありました。到底受け入れられない、私たちが出会った苦しみも悲しみも、今ある困難も、これからどんなことがあろうとも、神様と無関係ではありません。天地万物を創造し、全てを治めておられる神様の深い御思いの中にある、神様から賜った十字架です。今日、イエス様は「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と言われます。御言葉にお従いできない理由は、いろいろあるかもしれません。でも、イエス様は「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」とおっしゃるのではないでしょうか。神様の願いは、全ての人が一人も滅びないで永遠の命を持つことです。イエス様はそのために命を差し出してくださいました。

                                      村上丈子姉

近畿福音ルーテル津教会
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